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2012-11-21

地域集権の改革論

 どうして、このような中央政府の財政健全化に見えるような結果が生まれたのかを考えると、その「地方分権」という言葉に表れているように思えます。それは中央から地方へ権限を分け与えるという、中央からの視点です。つまり、「地方分権」という言葉が持つ意味にこそ、これまで私が批判的に見てきた「中央と地方の上下関係」という構図がすでに組み込まれているということが言えると思います。
 こうした「地方分権的視点」では、いつまで経っても「中央に依存する地方」という構造からは決して抜け出すことができません。例えば、平成の大合併や既存の道州制の議論はこの「地方分権的視点」が如実に表れています。なぜならそれらの改革は、地方自治の視点を欠いており、「受け皿」としての地方が強調されているからです。
 この視点こそ、まさに私の言う「地方分権的視点」です。「中央が地方に権限を分け与えるために、地方はそれなりの規模が必要であるから『受け皿』としての市町村や道州を作りましょう」という発想から中央と地方の関係を作り上げようとしているのです。こうした視点では、地方の依存度はますます高まるばかりか、簡単に中央政府の財政健全化路線に回収される危険性をも孕むことになります。「地方分権」という言葉にはこうした「上から下へ」という視点が組み込まれているということを私たちは再度意識しなければならないと思いますし、中央主体の議論からの脱却をしなければなりません。
 では、「地域主権」という言葉はどうでしょうか。これは2009年の政権交代を果たした民主党の政権公約で、現在の「地域主権戦略会議」においてもその文言が使われています。この「地域主権」とは、すべての地域が主権を持ち、「地域のことは地域に住む住民が責任を持って決め」れるような地域社会を目指すこととされています。しかし、内実はどうでしょうか。
 この「地域主権」改革も「地方分権」改革の延長線上、いやそれ以上に住民の生活を困難にしてしまう改革のように思えます。「地域主権一括法」によって、民主党は国の関与、つまり「義務付け・枠づけ」の撤廃や国の出先機関の原則廃止を行いましたが、財政面では補助金の一括交付金化を行ったものの地方交付金は削減され、全体の歳出総額を抑えていくという方向です。
 これは一見地方への権限移譲を行ったようにも見えますが、権限移譲の名のもとに国の財政負担を減らし、国民の生活を守るという責任の放棄にすぎません。このような財源保障のない権限移譲では地方間の格差拡大をもたらし、財政力の弱い地方自治体を切り捨てることになるのです。例えば、公営住宅の整備基準の廃止や保育の最低基準の引き下げは低所得者層や子供といったマイノリティーへのしわ寄せとなり得ます。このように「地域主権」改革は、規制緩和を行って公共サービスの改悪をもたらし、国民生活のナショナルミニマムすら満たせないような状況を作り出してしまうのです。
 「地域主権」改革がもたらすのはそういった地域間格差拡大による地域福祉の破壊のみではありません。この改革はその言葉通り、地域権力者の裁量拡大による地方における中央集権が起こってしまう危険性を秘めています。首長や地方議会が条例制定権拡大によって、地域住民のニーズとは異なった政策が行われるかもしれないのです。まさに既存の中央集権が地方へと転化され、「上から下へ」の政治が地方で行われるかもしれないのです。
 「地域主権」のようなナショナルミニマムすら満たせない、かつ地方での中央集権が行われるような改革はするべきではありません。今求められている改革とは、地域住民のニーズを満たすために権限・財源・人間の「サンゲン」をセットで各地域に渡し、住民による意思決定と合意形成が行われるメカニズムを整え、地域が主体性を持てるように地方を強くすること、つまり地域集権なのです。
 地域集権というスローガンがいかに地方分権や地域主権と違うかが明らかになった今、地域集権国家に向けてどのような改革が必要なのかについて話していきたいと思います。まず地方に財源と権限を渡して、地方の自己決定権の回復を実現することが必要となるでしょう。地方の財源と権限が如何に中央に管理されているかを見るために、国と地方の財政構造を確認することにします。
 2011年における中央と地方の歳入の割合は54対46であり、歳出の割合は41対59となっています。これは二つのことを象徴しています。まず6割近くの業務を地方政府が担っているということは、生活に密着した分野への支出が全体的に見ても多くなっているということです。一方で、中央政府はその地方政府の歳入と歳出を補助金や法令などによって管理しているということです。
 地方の歳出の割合がここまで大きくなったのは、生活に密着した分野の担い手がいなくなり、公経済がそれを代替しているからだと言えます。つまり、日本が成熟社会になるにつれて、これまで専業主婦や地域共同体が担っていた子育て・介護や防災・治安、それから日本型企業が担っていた職業訓練や産業振興を地方政府が代わりに担うことで社会を機能させているのです。
 しかし、問題は中央による歳入と歳出の管理です。地方政府がその地域のニーズを満たすために必要な財源を十分に確保せずに、中央政府に頼らざるを得ない状況を作り出しているのです。これでは地域独自の政策を自発的に作り上げることは困難でしょう。また、さらに問題なのは地方政府の歳出に関しても中央による統制が行われているのです。
 2011年の「地方財政計画」によると、地方政府による歳出の約半分ほどがひも付き補助金や法律などによって使い道が決められているのです。こうした中央政府の管理によって地方政府が中央政府の出先機関のような役割しか担えていないのが現状なのです。この構図こそがニーズの充足と受益と負担の一致を不可能にさせているのです。地域集権を目指すためにも地方政府にまずは財源と権限を渡す必要があるのです。
 私は消費税こそが地方税としてふさわしいと考えています。なぜなら消費税は税目の中でもっとも偏在性の少ない税の一つなので、地域間格差をあまり生まずに各地域が多様なニーズを満たせるような政策を実現できると考えています。もちろん、財政調整機能によってある程度の財政力格差は是正する必要はあるものの、各地域が中央政府に頼らずに多様な課題に取り組んでいけるようにするというのがあるべき姿でしょう。
 そこで地方政府の歳入が確保できるような税源移譲は必要となるでしょう。例えば、地方消費税と地方の法人二税とを交換した上で、交付税の原資に充てられている国の消費税を地方消費税へと移譲するなどの改革案が考えられます。消費税の増税を行う前に、こうした現行制度の改革によって地方政府が使える財源を確保していくことも重要でしょう。
 なぜなら、「地域主権」のように財源保障なしの権限移譲は、規制緩和という名の政府の責任放棄とみられ、ますます政府への信頼がなくなるからです。「地域主権」のような改革では、私の目指すナショナル・スタンダードどころか、ナショナルミニマムすら満たせず公経済の解体を促進してしまいます。そうならないためにも、財源を確保した上での権限の移譲が求められているのです。その結果として、地域住民が自分達で身の回りの課題を解決出来るようになると考えています。
 こうした「我々で決める」という住民自治のあり方によって、初めて新しいことに挑戦するということも可能になってくるでしょう。読者の中には「それでは政策的失敗が起こりかねない」と危惧する方もいるかもしれませんが、それこそが私の意図していることです。どういうことか。もちろん住民が望むような政策が達成できないこともあるかもしれませんが、その「失敗」の経験こそが大切だと思っています。
 機会の平等が担保された上では、そうした経験はバッシングの対象となり得ません。同じぐらいの資金でどうやって各地域がそのニーズに対応していくか、という共通の問いがあるからです。自身の失敗的政策は反省し、他地域の成功的政策からは学ぶ、そうした地域間の切磋琢磨、言い換えると「質の競争」こそがこの政策の意図なのです。
 ただし、役所だけでは満たせないニーズも必ずあります。そのためにも市民の力やNPOの存在が不可欠となります。これは地域集権を「議会・首長集権」ではなく、民主主義を成熟させる手段にするためにも必要な政策です。戦後日本では政官財の鉄の三角形というものが形成され、「国の若さ」のメリットを最大限活かしてきました。そして、「成熟国家」となった今、必要なのは地域集権下における役所・議会・地域住民による「新しい三角形」の形成なのです。開かれた地域主義への移行こそが財源・権限の増加に伴うチェック機能の向上をもたらすと考えています。

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