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2012-11-20

中央集権を打破しなければならない

 ここまで、日本における中央集権的な特徴の歴史的背景を見てきましたが、この中央集権的な特徴がすべて悪かったと言いたいわけではありません。こうした中央集権は社会資本整備が急務となる時期にはとても有効な手段であり、日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われるまでに急成長したのも以上のような中央依存的な構造のおかげだったとも言えるかもしれません。そこで、ここからはどうして戦後日本の経済構造にとってそのような中央集権がうまく機能していたのか、そしてそれらがどうして機能しなくなったのか、そしてなぜ今、地域集権が必要なのかを順を追って見ていきたいと思います。
 第二次世界大戦後に日本は敗戦の焼け野原からもう一度国づくりを始めることになります。そして、そこで日本は既存の中央集権体制をうまく活用することでジャパン・アズ・ナンバーワンと言われる大国にまで上り詰めることが出来ました。その背景には「国としての若さ」とそれを有効活用するための中央集権体制がありました。まず、「国の若さ」の特徴である労働賃金が安く、若者が多いという利点をうまく活かして、安い労働力を駆使して質の高い工業製品を海外に輸出することで利益を生み出すという企業モデルを採用します。そして政府はその企業モデルが長期的に機能するような環境整備を行うことによってサポートを行っていたのです。
 つまり、それが中央主導の公共事業でした。なぜなら、こうしたインフラの充実によって地方への工場移転が行われ、国内投資の増大と地方での雇用創出を生み出し得たのでした。公共事業の凄さは、以上の効果のみならず、公共事業それ自身に地方での雇用創出機能を孕んでいたということは付け加えておく必要があるでしょう。こうした公共事業によるインフラ整備とそれによる雇用創出と国内投資の増大は、輸出の増大と企業の利潤をもたらし、その結果が被雇用者の給与水準の上昇と国内消費の増大へとつながることになったのです。
 つまり、戦後日本の経済構造を支えていたのは「輸出ドライブ」と公共事業の両輪だったと言えるでしょう。こうした「国の若さ」と中央集権体制を最大限に生かした経済構造が経済の好循環を生み出していたのです。しかし、経済の好循環を生み出していた要因は果たしてこれだけだったのでしょうか。いいえ、違います。こうした経済構造の前提には地域コミュニティ、家族(主に専業主婦)や日本型企業形態がありました。まず、地域共同体が治安や防災といった分野を、家族が介護・福祉や子育てといった分野を担っており、また日本型企業形態が男性就業者を中心とした賃金獲得保障を担っていたのでした。
 なぜ、日本型企業形態がコミュニティとして機能していたかというと、終身雇用、年功序列賃金形態、企業内訓練を特徴に持つ日本型企業形態は、まさに家族や共同体的システムを内包していたと考えられるからです。社員旅行や社宅などはその典型的な例でしょう。こうした状況から、中央政府は現金による社会保障制度である失業手当、生活保護、年金制度を整えることだけを行い、あとは画一的な国土発展を遂げるための施策である公共事業に専念していれば日本経済は機能するようになっていたのです。
 以上の好循環が生まれた要因を整理すると、「国の若さ」を最大限に生かすような国家体制が中央集権であったことが挙げられます。この「ゼロからスタート」にとっては画一的な発展を遂げるために規模の大きい行政主体によってスケールメリットを活かすような体制が望まれていたためです。それらの具体的手段が「輸出ドライブ」と公共事業、そして既存の共同体や会社共同体の活用だったわけです。この好循環期における公経済と私経済のバランスはとてもよかったと考えられます。
 まず、地域コミュニティの活用によって出来るだけ生活に密着した分野に関しては地域によって解決をさせるように促し、公経済の担うべき役割を小さくすることが出来ました。そして、政府は私経済が機能するように、つまり企業が継続的に利潤をあげられるような環境整備を行うことに専念することが出来ました。また、それゆえに企業は日本型企業形態を継続的に維持することも出来たと言え、それが結果として公経済が公共事業と現金給付型社会保障制度に専念することを可能にしたのでしょう。
 こうした経済の好循環的経済モデルに影が差すのは1970年代に入ってからと言ってよいでしょう。それは公害問題やエネルギー問題を発端に、経済発展より豊かな社会の実現を目指そうと日本の方向転換が叫ばれ始めます。その象徴として1973年が福祉元年と呼ばれることが挙げられます。
 しかし、日本はうまく舵を切ることができませんでした。インフラ整備の充実が言われているのにもかかわらず、中央主導の公共事業を行うことで地方経済の衰退や地域間格差を食い止めようとし、その結果国家財政の悪化を促します。また、女性の高学歴化や産業構造の変化に伴い、女性の就労率が改善したにも関わらず、育児や保育といった分野の社会保障制度改革は一向に行われず、現金給付によって市場経済からはみ出した人びとを救うという旧来の制度を推し進めました。
 その結果、少子化がこれは、ヨーロッパのように働きながら子供も産める環境を日本が整備してこなかったがゆえの結果で、女性に「働くか、専業主婦になるか」の二択を迫るという悲惨な社会環境を作り上げてしまいました。また、この女性の社会進出に合った対策を行わなかったのは少子化対策のみではありません。少子化の裏表で進行していた高齢化社会においても政府は対策を怠ってしまいました。女性の就労率上昇にともなって介護などの対人社会サービスを充実させるべきだったにも関わらず、親の介護のために仕事を辞めざるを得ないような環境や、また「老老介護」という高齢者が高齢者を介護せざるを得ない状況を作り出してしまいました。
 このような女性の社会進出と少子高齢化の他に、グローバル化という大きな社会的変化が起こったのもこの1970年代以降です。グローバル化によって市場が拡大すると、旧来のように給与水準は右肩上がりとはいきません。なぜなら、資本は簡単に海外へ飛び回るようになり労働分配率は低下の傾向にあるにもかかわらず、グローバル化に対応するために「家族共同体型企業」の解体、つまりリストラや成果主義の導入、それから非正規雇用者の増大などで元来あったはずの企業内におけるコミュニティ的な機能を破壊してしまいました。
 こうしてこれまで「輸出ドライブ」を支える機能をもっていたはずの、家庭内・企業内の助け合いの絆は徐々に解体に向かい、また少子高齢化とともに現金給付だけでは対応できないはずの社会保障制度の改革は進まず、インフラ整備の完了とともに公共事業は「ムダな支出」として扱われるようになりました。まさに旧来の好循環はその社会の変化により悪循環へと転換していったのです。しかし、以上の社会的変化は日本の経済発展ゆえに起こった現象であることに注意する必要があるでしょう。産業構造が第二次から第三次に変化したことにより女性の就労率の上昇が起こったと言いましたが、これは日本経済が発展したからです。それから投資先が国内ではなく海外に行くようになったのも、国内投資先がなくなるぐらい十分に発展したからだと言えます。それから給与水準が上がらなくなったのも、高齢者が増えたのも同じことです。つまり、日本はまぎれもなく「成熟国家」になったのです。

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