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2012-11-20

地域集権とはなにか

 これから、医療・介護、教育・子育て、それから経済に政治と、幅広い分野について私の思いを述べていきます。しかし、それら分野に共通している概念があります。そうです、それが地域集権という国家像です。今、日本に最も必要なことは、各地域に存在する多様なニーズを満たし、かつこの人口減少社会という未曽有の事態に対応することです。「はじめに」でも述べたように、公共事業と輸出ドライブを活用した発展途上型経済発展モデルがうまく機能していたのは、日本が「若い国」であったこと、そのメリットを活かした「中央集権体制」であったからです。
 しかし1970年代以降、その発展モデルは行き詰まりを見せ、「成熟国家」に合った発展モデルが模索されているところです。日本が本当に成熟社会になるために、この地域集権改革が必要なのです。つまりこういうことです。「若い国」に合った「中央集権体制」というモデルから「成熟国家」に合った「地域集権体制」というモデルへの転換こそが現在の日本に求められているのです。しかし、誤解していけないのは「地域集権を行えばすべてが解決する」と考えてはいけません。なぜなら地域集権は目的ではなく手段に過ぎません、しかもそれは唯一の手段です。各分野における処方箋を根底で繋いでいるのがこの地域集権なのです。
 ではまず、地域集権とは何か、という所から話を始めたいと思います。私は地域集権を「生活に密着した身の回りの課題は出来る限り自分達で解決するために、自らの資源を活用し創意工夫して新たなことに挑戦し、自分の地域の魅力や価値を伸ばしていくことができること、その結果として経済的発展を達成することで国全体が成長するような国家体制」と定義しています。言い換えると、地域住民が権限・財源・人間の「サンゲン」と資源を合わせた「ヨンゲン」をその地域の多様なニーズを満たすために活用し、その結果、お互いの地域が切磋琢磨し競争し合うことで日本が成長していくということです。
 これは住民の意思により設定された課題を地域が自主的に解決を図るという意味において、地方自治の理念が具体化されたものと言えるでしょう。この地域集権によって地方自治を活性化させることが人口減少社会に対応する手段であり、これこそが後世に豊かな社会を残すことができる唯一の国家像だと私は信じています。この地域集権を実現させるために必要なことは、「サンゲン」を地域に渡すことで地方を強化し、それによって地域の多様なニーズを満たし、また受益と負担の明確にして質の競争を促進することです。「成熟国家」にまで発展を遂げた日本は途上国モデルの中央集権体制から脱して、地域集権国家へと移行しなくてはならないのです。
 なぜ今、地域集権が必要なのでしょうか。そこで、「地域集権」という視点から、日本が抱える諸問題を整理していくことにしましょう。日本の「国づくり」が始まる明治時代から歴史を振り返ると、その初動に現在の中央集権体制の始まりが見受けられ、また現在に見られる中央集権体制の打破が困難な理由も明らかになります。明治政府はまず旧支配者層の解体をするために、「廃藩置県」、「秩禄処分」、そして「地租改正」といった改革を急進的に行っていきます。それらは簡単に言うと、藩を明治政府の管轄下に置くことによって旧支配者層であった士族の経済的基礎を徐々に解体していき、新たな社会体制を構築しようとするものであったのです。
 またそのような新政府の設立には膨大な費用が必要であったため、明治政府は新たな租税制度、つまり中央政府に膨大な租税収入が集まるような財政システムを確立することが進められたのです。こうした明治以降の改革に日本における中央集権的なシステムの発芽が垣間見ることができますし、それによって日本は近代化を急速に成し遂げることが出来たと言えるでしょう。ここで中央集権体制が取られたのには西洋による植民地化の脅威から国を守るためであり、そのためには旧支配者層の力を弱めて国力の強化に全力を注げるような体制が必要なのであったのでした。つまり、中央集権体制を活用することが当時の日本においては一番の有効策であったのです。
 近代化の波にうまく乗れることの出来た日本は第一次世界大戦後にある転機を迎えることになります。興味深いことに、当時の日本では現在のような地方自治を強調するような政策論議が活発に行われていました。その理由は自治体の財政運営が困難になってきたことが挙げられますが、これは日本という国がある程度成長し、それによって中央集権が社会に合わない体制になったために地方自治体の財政が危機に陥ったと言えるでしょう。しかし、当時の日本は地方自治への道を閉ざし、中央集権体制を強化することによってファシズムの道を歩むことになったのは皆さんの周知の事実です。
 まず、地方間財政格差や地方の財政危機が顕著になると、政府は地方の財政不足を補助金によって補填する政策を行い、地方債の起債による公共事業が行われるようになりました。つまり、それは国が地方財政を集権的にコントロールし、地方財政が国の経済政策に飲み込まれるということです。その後にそれら政策が非難されるようになり、財政健全化が叫ばれるようになると、大蔵省は増税ではなく、国債発行の削減による財政再建を行うようになりました。それにより、地方への補助金削減が行われ、その結果、地方債の大量発行に追い込まれたのである。つまり、地方自治の再編が見送られ、集権的な財政管理が確立されたのです。
 その集権的システムが軍事費の突出を呼び、日本はファシズムへの道をたどるようになったのでした。この時代は現在の経済状況とかなり酷似しており、その当時を振り返ることは現在の私たちにとって多くのものを教えてくれるでしょう。例えば、第一次世界大戦による経済的繁栄と、関東大震災、その後の昭和恐慌、世界大恐慌という経済の長期停滞は、戦後による高度経済成長、バブル崩壊後のデフレ不況、リーマンショック、東日本大震災などが重なり合います。当時の状況を地方自治とファシズムの分岐点であったという議論がありますが、現在の私達の時代ももしかするとその分岐点に立っているのかもしれません。

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